2016年05月06日

Vol.1264「“みんな”という抽象的概念を疑う」


「みんなやっているから、自分もやる」

「みんな持っているから、自分も欲しい」


といったように、世の中には

「みんな」という抽象的な概念が

まかり通っています。



おそらく、そこには、

(自分が属しているであろう)「みんな」に、

1人だけ乗り遅れたくない、

仲間外れにされたくない、

という心理が働いているのでしょう。


「みんな」に入っていれば、

とりあえず安心感を得られる

のかもしれません。



しかしながら、いつも

「みんな」の価値観や常識に流され、

自分の価値観をそこに合わせに行く

ような生き方をしていると、

あたかも海を漂うクラゲの如く、

フワフワとして軸が定まらず、

いつになっても一歩踏み出すことができない

ような気がします・・




そもそも、

「みんな」とは一体誰なのでしょうか?



定義からすると

「人間の集まり」のはずですが、

1人1人の名前を挙げていくと、案外、

数名しか思い浮かばなかったり

するものです。



実際、その多くは、

メディアによって生み出された虚像

に過ぎません。



また、

「みんな」にもレベルがあるのではないか?

と考えています。



例えば、


「みんなが休み時間や通勤時間にスマホゲームをやっているから、自分もやる」


というレベルの「みんな」

もあるでしょう。


他方で、

私(安野)が想定している「みんな」(=付き合いたい人たち)は、

スマホゲームなんてやっている暇は無い

ですし、

もしも時間が空いたら

本を読むような人たちばかりです。



そういう意味では、

自分が照準を合わせる「みんな」

のレベルによって、

将来的な成果も違ってくる

のではないでしょうか。




抽象的概念に惑わされないよう、

自分の中の「みんな」を疑ってみた方がよい

かもしれません。


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【本日のまとめ】

■ 「みんな」の価値観や常識に流され、自分の価値観をそこに合わせに行く

  ような生き方をしていると、

  いつになっても一歩踏み出すことができない。

■ 抽象的概念に惑わされないよう、

  自分の中の「みんな」を疑ってみてはどうだろうか。




posted by 安野 広明 at 12:43| 島根 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする